運営者の想い

 

昨今よく目にする美文字。

 

それらの本を開いてみる――。

 

美文字と謳っているのに、(少しの例外を除いて)タガがゆるい。

一向に感心できないなあ。世を見くびりすぎではないでしょうか。

中には「ぎゃあ~(>_<)」と叫びたくなるものもあります。(よい子はあんな粗雑な字の真似をしたらダメだよ。反面教師にしておきましょう。ただ、粗雑なものを見ること自体があまりよくない。眼がやられてしまいます。目は胃のように異物を吐き出してはくれません)

要するに、美文字とかいっているほとんどの文字が、とてもまずそうだということです。美文字の美は、美味の美でもあると考えたいところです。

 

ほとんどの人は、もっとやわらかくて品のある字形や線質で書かれた、そういう風合いの文字をあまり見たことがないのかもしれません。だから、いま流行りの美文字を、美しいものだと頭から信用して、簡単に鵜呑みにしてしまうのだと思います。もっといいものを見なければ、眼が低いところで固定してしまいます。毛筆で書かれたものは、だいたい書線が重い。のっぺりしている。

 

活字はどうだろう。

 

活字にも不正確で間(ま)が悪いものが多いな。

 

 

普通に書いた手書き文字の本当の妙や本当の良さを

ほとんど感じられない当世。

これは、さみしい。

だったら私たちで発信しよう! 私たちがひと働きしよう。

 

WEB名前字典を始めた所以です。

 

ごく普通のことをして、 その範囲内で何ともいえない風情を醸し出したい。

活字の正確さをも凌駕したい。

誰もが読める、現行の馴染みある普通の漢字や仮名であっても、 書線や形が真摯なら、人々の心を捉えることができる。

普通の素直な線。この魅力を伝えたい。

多くの人はこれができないから、基本とがっぷり四つに組む練習が面倒だから、ぐちゃぐちゃ・ぐにゃぐにゃと書いたり、無駄にこすりつけたりしてごまかしてしまいます。そういう文字が多くなっている昨今だからとにかく浄化しておきたい。

ごく普通の、何ともいえない魅力。

そういう文字を多くの人が知らないなんてもったいない。

 

有機農業がいい土をつくるところから始まるように、文字も、土にあたる基本をないがしろにしていては、健全な作物(文字)が育ちません。土づくりには時間がかかりますが、いい土から実ったおいしい作物は人を笑顔にします。だからまずは健全な土づくりから。

健全な土づくりが最も大切と言うからには、まず当WEB名前字典の見本自体に魅力がなければ話になりません。当方は土づくりにほとんどのエネルギーを注いできました。見本文字は、作物というよりも、土だともいえます。だから「こんな字を書きたい!」と思っていただけるような見本を書かなければなりません。そうすれば土にあたる基本を習得することができます。基本ができてからの表現と基本ができてないうちからの表現ではその深さが違います。

また、この見本文字群を見ているだけで心が落ち着き、幸せな気持ちになれるような、“文字の楽園☺”的な空間になればいいなとも考えています。

「この字を見本にして書きたくて、居ても立っても居られない」と思うような文字が、その人にとっての最良の見本です。「このかたに是非とも習いたいな」という人がその人にとってのよい先生であることと同じです。

 

私たちは、“書”という芸術には大恩があります。だから偽りなく報いたい。

書の古典からは、いい影響をたくさん受けました。古典は決して恩に着せませんが、大恩を感じずにはいられません。

書に携わる者がその技芸を生かして、縁もゆかりもない一般世間の多くの方々とつながることができる最後のトリデのひとつが、このWEB名前字典のような世界ではないかと考えています。だから本気になれます。(パソコン・スマホ・携帯を持っている日本人全員を対象にできます。巨大な名前字典[文字の書き方字典]をスマホで手軽に持ち運ぶことができます) このコンテンツ自体が、現代の書への提言となっています。当方は、書くという分野の、そのどこに気力を注ぎ込むべきか・どこで本気を出していくべきかと、ずっと考え・悩みつづけてきましたが、そしてなかなか決められないでいましたが、今のところ、このWEB名前字典以上に関心のあるものはありません。

人々の生活に深く入り込めるもの・機能するものを、書を活かして真面目に生み出すこと、そして、見た人が何かこう、ホッと幸せな気持ちになれるような穏やかな文字を書くことが、書を志す者が求める方向のひとつではないでしょうか。

 

当WEB名前字典の見本は、子供が最初に見本にしてもいいような、クセのない中庸の書風をかなり意識しています。人の感性の邪魔をしないようにしたい。目を汚さないようにしたい(美文字本を買うお金を、何かもっと違うものに充てても大丈夫。このコンテンツをしっかりと参考にしておけば、まともな能力を培えます。フリー公開することで、これからの若者の育英的な役割をも果たせるコンテンツでありたいとも考えています)

味をつけていない白いご飯の、その究極のようなものを目指しています。渾身の力を込めたストレート勝負。

飽きが来ない、ど真ん中の普通を目指しています。でも無機質にはならないようにしています。

中庸の見本を示す場合、活字はクセがないようで良いように見えますが、活字の名前にそれを任せることは到底できません。けったいな字形をおぼえる端緒になります。

ごく簡単な例として、「利」の三画目をはねていたら間違い、という考えは、活字に範を求めるところから出ています。本当はどちらも可です。活字の方が手書きよりも正しいみたいに思わせてしまう教育になってしまうと、はねていれば間違い、という考え方にどうしてもなってしまいます。活字は新参の文字である、ということを頭に入れておく必要があります。活字には、手では書きにくい形が多く含まれています。

活字のすごさは、字を気にせずに内容だけを読ませるという無駄の無さです。字に無駄な部分がいっぱいあれば気をとられて中身に集中できません。

でも、正方形におさめようとする活字の字形には多くの欠点があります。参考にしていてもうまくはなれない。

例えば「江」「仁」、手書きでこうは書きません。「エ」・「二」部分が上下に伸びすぎです。枠いっぱいにあわせようとするからこのような形になります。この活字()を見本にして書いていては一生うまくなれません。

 

後払
「払」字の“ム”部分がこれほどまで縦長になるのは、
正方形に強引にあわせようとするからです。
手書きでは“ム”をここまで縦長には書きませんよね。

 

仏恩
空海筆の手紙・風信帖の「仏恩」
“仏”も“払”と同じで、手書きでは“ム”の部分を
活字のように縦長には書きません。

 

 

「文」「本」「木」も正方形に合わせようとするからこんな形()になります。手書きでは、普通は三・四画目を強調(一対強調)します。

「に」も正方形に入れようとするからこうなります。三画目、ここまでは下げません。「し」もこんなに上に曲げることはまれです。

筆耕を仕事にしている方の文字には、正方形の文字枠下敷きを紙の下に置き、その枠をガイドにしながら書いていらっしゃることがあからさまに分かるものがままあります。そうして書かれた場合、例えば、「田」や「司」はどのようになるでしょうか。正方形の下敷き文字枠いっぱいいっぱいに引き伸ばされた形になります。活字の原理と同じです。美的ではありません。

活字的な考え方に侵蝕されると、美しい文字が書けなくなってきます。

 

何はともあれ、没個性を目指しながらも、なんとなくふわっとあたたかい感じの、没個性の個性を出せるのはやっぱり人間。手書き筆文字の風合いを見ると、お子さんの名付けの際の、活字では感じられない命名インスピレーションの一助になるかもしれません(「命名書」を書くときの参考にもなります)

話はややそれますが、書き方の見本で一番難しく一番責任があるのは、幼児・児童の見本であり、義務教育の見本です。

義務教育の場面で古典を使わないのであれば、目を汚さない、高度な中庸の文字が求められます。これほどおそろしい仕事はあまりありません。

これは素人には任せられない分野。玄人はだしの達筆の素人など世にいくらでもいますが、どれだけ達筆であっても素人の文字は細かい部分がどうしてもゆるい。プロでも、したいと言って誰もができることではありません(ある程度の天稟が必要になってくる)。できる人は本当にごく小数、各世代に数人しかいません。というか、バシッと書ける人こそがプロ、と言ってもいいかもしれません。えらい人、有名な人が決まって上手いのでは無くて、書ける人こそが上手い(書家の中には、「書家からすれば普通の整った字くらいへのかっぱだよ」みたいなことを言う人もいらっしゃいますが、バランスに敏感であれば普通の整った字が簡単だとは決して言えません。難しさを理解できないのであれば、書く分野でものになる可能性すらないのではないでしょうか)。

どれだけ私情無く、かつきちんとした文字を書けるかが大切。無駄に上手く見せる必要はありません。若い子供達の感覚の邪魔をすることになります。それはあまりにも僭越。子供用の見本だからと、それを見くびったり、その職分を甘く見たりするのは、当然禁物です。

素人からみれば、プロの書家なら誰でも朝メシ前にできるような、初歩的なものと思われるかもしれませんが、現実的には、できる書家を探すのは難しい。ごまかせない分野のものだからです。例えば、著名な書家だから、というだけで依頼して、書き上がってきたものが全く使えないものだったとしても、全部書き直してください、とはとても言い出せません(大変けっこうな文字ですが、恐れ入りますが一箇所だけお直しいただきたいところがぁ……、くらいならともかく、どうしようもないものなら書き直しでどうとかなるという次元ではありません)。だから最初から、本当に能力のある書家にしか頼めません。ごく普通の文字というものは、実際のところ微に入り細をうがつとてつもない集中力を必要とします。力を外に見せるというよりも、持っている力を徹底的に抑えて抑えて書く技能が特に必要になってきます。

他のものは、例えば看板でもロゴでも広告でもなんでも、好き勝手派手に書こうが、誰が書こうが、おもしろおかしく書こうが、上手くても下手でも、クセがあっても、カラ元気でもなんでも、ある程度読めたらそれでいいといえばいい。むろん何でもいいというわけではありませんが、許される範囲は広くその質はピンからキリまであってキリを取り上げたら枚挙にいとまがないほどです。基本(日本料理でいえば包丁使いの基本である「かつらむき」にあたるようなもの)すら全くできていなくても書家を名乗れてしまいます。それでよいのなら、まるっきりの素人や子供が書いた方が却っておもしろいということも無きにしもあらず。教育的な場面ではこうはいきません。

司馬遼太郎氏が「二十一世紀に生きる君たちへ」(小学校の国語の教科書に寄せた随筆)を書いたとき、長編小説一篇を書くのと同じくらいの労力を費やした、と語ったようですが、書の見本も、児童生徒に書き示すものには遠大なデリケートさが求められます。

当WEB名前字典の主眼は、感性・感覚の邪魔をせず、大人になっても、標準・基準のものとしてずっと座右に置いていただけるようなものを提示することです。先ほども書きましたが、おいしい白ご飯のようなものが理想的。中庸中の中庸を目指しています。

最初は必ずニュートラルなものがよい。白ご飯だから、オムライスにもチャーハンにもドリアにもなります。反対は無理です。最初から味のついたものを与えられては、もはや普通には戻せません。例えば、幼児が、一番最初に化学調味料の入ったきついダシを与えられると、カツオと昆布でとった、やわらかい自然なダシの微妙さを感じられる味覚がこわれてしまうことと同じです。

中流の砥柱(しちゅう)でありたい。

漱石の言葉を借りて、それをややアレンジして言えば、「これらの文字は、少なくとも世の家庭に悪趣味を持ちこむことだけはしないものでありたい」

今まで納得できるような名前文字や、あるいは標準的な文字を見つけられないままの、文字意識が高い方々のお眼鏡にもきっとかなうはずです。

ひとつひとつ着実に身につけていけば、いつのまにか、長い手紙などもスラスラと書けるようになるはずです。「千里の行も足下に始まる」。技芸の習得に近道はありません。名前という基本中の基本のものから丁寧に始めましょう。もしプロフェッショナルを目指したいのならば、基本中の基本から徹底的に修得しなければ話になりません。

これらの見本のようなごく普通の文字をごく普通に安定して書きこなせる技を手に入れれば、実力だけがものをいう、教育的・学術的な分野の筆記の要請を引き受けられる、きっちりとした腕をもつ書き手になれます。今、本当に書けるかどうかだけが大事。経歴や資格などは無関係。古川に水絶えず。もし、いつ依頼がきてもすぐに書けて然るべきポストについているのであれば、ごく普通のことくらいはいつでもすぐにできる、そういう準備はしておかなければなりません。

また、「漢字」と「かな」をバランスよく練習することも大切です。字種の少ない「かな」ばかりを書いていると、「漢字」を整えて書くことが難しくなってきます。「漢字」は「かな」よりも圧倒的に字種が多いからです。まんべん無く練習したいものです。

安定した技を手に入れたら、あるいはWEB苗字字典、WEB地名字典などなどもできます。サービス精神のある人が真摯な技量をもったならば、そういうWEB字典がこれから世に現れてくるかもしれません。発信者に必要な道具は、筆と墨とふつうの紙とスキャナーとパソコン(そしてもちろん情熱)。特殊で高価な工具や機械は何もかも不必要。

どこに出しても恥ずかしくないまで磨き上げられた文字の見本が、誰もが、どこにいても、手軽に見ることができる、そんな時代に変わればいいのにな、と私たちは思っています。そして当WEB名前字典を、その第一歩にしたいと思っています。

とはいうものの、上には上がある。だからたとえば、当WEB名前字典の文字の質に不満でしたら、さらによいものを作って公開してください。質が高ければ必ず隅々まで参考にします。真摯な文字によって忠告されるなら、またさらに世の多くの人の参考になるはずです。

まともな文字を取り戻す!

 

 

靖国神社《遊就館》の展示を拝観すると、若い兵隊さんが家族に宛てた手紙(及び遺書)も見ることができますが、当時の若者の文章力・文字力には目を見張るものがあります。当時の若者が、今の若者や昨今の日本人の文字を見たら、どういう思いを抱くのでしょうか。

 

書道では、表現という要素がもちろん大切であるとはいえ、まずはあたり前のことからきっちりこつこつはじめなければ、文字を観る眼を養えません。若いうちから「生命の躍動」などといって大きく力いっぱい書いてばかりいると、ついに生涯、普通の文字が書けなくなるかもしれません。細字や普通の文字にも生命の躍動はあります。書の古典の、ほとんどすべては小字です。そして名蹟とされているもののほぼすべては、ごく普通の姿をしています。「型破り」な書は、型ができてからでないと書けません。まずは基本からきっちりと。根無し草にならないために。珍獣化の道をたどらないために。

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